11月17日に、石牟礼道子原作『天の魚』原作の独り芝居を企画していると話した。体力気力に限りがあるので、自分の友人知人の範囲で細々と宣伝する日々である。しかし、1団体だけ、たとえ初対面であっても「大阪で水俣病事件を考えるイベントをやります!」と勇気を出して伝えたい人たちがいた。「チッソ水俣病関西訴訟」の原告さん達や、支援者の皆さんだ。

生活の糧である海(そしてその海を通じた仕事)を奪われ、やむなく故郷を離れた不知火海周辺出身者はたくさんいる。1982年、関西在住の患者たちは集まって声をあげ、国・県・チッソを相手に「チッソ水俣病関西訴訟」を起こした。この訴訟は長い闘いを経て、原告が勝利して終わった。2004年に最高裁が国・県の責任を認定したのである。その間、何度か「和解による水俣病事件の幕引き」がなされてきたが、関西訴訟の原告と支援者は、根本的な解決を目指し、途中で訴えを取り下げることなく粘り強く闘った。患者や家族だけでなく、医師たちも裁判の証人として立ち、国側の“水俣病専門家”たちと論争し、「感覚障害だけでも水俣病」ということをついに最高裁判所に認めさせたのだった。その勝利のおかげで6万人もの潜在患者の存在が明らかになり、私達家族も、最後と言われる2009年の水俣病特別措置法での“救済”の対象として手を挙げ、両親の医療費だけでも手当てされることになった。

しかし、関西訴訟の勝利は本当の意味でその後に活かされた訳ではない。裁判が明らかにした「水俣病認定制度の誤り」自体は正されないまま、またもや和解のいう形の幕引きが優先されて、正論・・・水俣病の病像を正しく捉え、行政と加害企業がともに、患者にきちんとした補償や謝罪をすること・・・にこだわる人々は再び少数者の立場に追いやられている。悔しさを抱えつつ日々を暮らす関西訴訟の原告さんお二人の話をじっくり聞かせてもらって感じたのは、「水俣病患者」「水俣病被害者」と言っても、その人生は様々で、ひとつとして同じ物語はないということだ。自分が何等かの物語を持っていて、そして一人ふたりのお話しを聞いただけで「水俣病の事をよく知っている」とは言えないのだということを実感して、身のひきしまる思いをした。

SNSでの告知を見て突然電話してきて、『天の魚』のチラシを会場に置かせてくださいと頼んだ私を、主催者の皆さんは温かく迎えてくれた。打ち上げの食事会にも誘ってくれ、私の話を熱心に聞いてくださった。皆さんのお話や活動のことを色々と聞かせてもらい、それぞれの物語や症状は多様でも、「この原告さんたちの声を埋もれさせてはいけない」という思いは、みんなが持っているものなのだと確信が持てて、私はまた勇気をもらった思いがした。緊張しっぱなしの一日だったが、勇気を出して行って来てよかったと思う。当日が楽しい一日になるように、体調を整えてがんばります。

おしたようこ「布団星人がゆく36」『風通信 2019年11月号』より転載。